今日は防災の日です。1923年のこの日に、関東大震災が起きました。あと2年で100年なのですね。
私の母と祖父母は、この大地震の被災者で、母の生まれは1922年11月、まだ1歳に満たない乳飲み子でした。地震があった日、祖母は母を背負って家から飛び出して、気がついたら祖母は手にはバケツを持っていたとか。祖父は漆喰で壁に絵を描く職人で、家は東京の下町、墨田区にありました。地震の被害が大きかったところですが、実際には地震の揺れでは、まだ家は倒壊しなかったそうです。
揺れが落ち着いて、近所の人たちと一緒に、祖父母は避難所に指定された場所に移動しました。祖母は母を背負って育児用具や身の回りの物を持ち、祖父は母の初節句にと仕事仲間が買いそろえてくれた、段飾りのおひな様を背負って、仕事道具と日用品を持ったそうです。近所に住んでいた祖父の母、弟妹も一緒でした。リヤカーに布団や七輪などを積み、引っ越しのような様子で避難所に移動した方々がほとんどだったそうで、これは、この地域の人たちが、江戸時代から火事や地震による避難になれていたこと、家財道具はリヤカー一杯で事足りるような身軽な生活を送っていたことの表れでしょう。
ただ、このときはそれまでの災害と違っていました。祖父母たちの地域の避難場所は、陸軍本所被服廠跡地だったのですが、重いリヤカーを引いてやってきた人々はすっかり疲れており、広い空き地に密集した家族は、思い思いに荷物を下ろして煮炊きを始め、談笑する声すら聞こえたとか。しかし、そのときにはすでに火災が起きていて、炎も見えたそうです。
祖父母や、他の幾人かは、その炎を見て怖くなり、ここは危ない、もっと安全なところに逃げようと、曾祖母や弟妹を促しましたが、リヤカーを引いて疲れていた曾祖母や、おなかが空いていた幼い弟妹は「もう疲れたからここにいる、みんないるから大丈夫」と言って、動こうとしなかったのだと、祖母は悲しそうに言っていました。
祖父母は、母を連れて、風上に移動しました。風上には上野公園があり、動物園の虎やライオンが逃げるから危ないと止めた人もいたそうですが、祖父は、獣より火事の方が怖いと、あくまで風上を目指したのだそうです。
この日の、被服廠跡で何が起きたかはご存じの通りです。火災旋風で、この広場にいた方々は皆さん命を落としました。私の曾祖母も、大叔母と大叔父も、近所にいた友人も親戚も、全員が亡くなったのです。祖母にはたくさんの兄弟がいましたが、生き残ったのは祖母と弟一人だけ。
祖父の妹、私の大叔母は15歳で、数日後にはお嫁に行くはずでした。可愛い娘で、近所の方に見初められて、親同士が縁談を決めてしまったのです。大叔母は、まだ結婚したくないと祖母に訴え、泣いていたそうです。結婚しなくて済んだのだけれど、かわいそうに亡くなってしまってと、祖母はこの話をするたびに涙ぐんでいました。
祖父母は、母が結婚して今私のいる町に引っ越してきたとき娘についてきましたから、私は祖父母と一緒に暮らしていました。この話は、私が小さい頃、祖母が毎日のように聞かせてくれた話です。我が家の仏壇は、長らく小さく粗末な木製の仏壇でしたが、母はどうしても買い換えられないと言っていました。関東大震災の被災者には見舞金がでたそうで、祖父母はそのお金で亡くなった家族の法要をし、仏壇を買ったのです。
100年近く経ってボロボロになった仏壇は、修理してもきりが無く、さすがの母も、自分が死んだら新しいのにしてよろしい、と言っていたので、母の1周忌に新しいものに買い換えました。古い仏壇の一部だけ、新しい仏壇に納めてあります。